細胞診の話 大切な診断方法だけど、微妙なときもあります-
(亜希子さんの話を読んで、細胞診検査の内容や正確な診断を知ることの大切さを知りましょう)
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「え!」亜希子は、言葉を失った。
「この乳腺エコーでは、ガンの可能性が疑われるので、MRI検査をおこなってみた方が良いと思います。」乳腺外科医の坊田は、表情を変えずに告げた。
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「ガンかもしれないって、半年前の前回の検査では、左乳房も右乳房も大丈夫って言ってたじゃないか!」亜希子の報告をその夜に聞いた和夫は、思わず声を荒げた。
「自分では右のお乳にしこりは触れないし、何もないと思うのだけど、気になる石灰化があるんだって、坊田先生は言われてたわ。右のお乳から細胞診検査もしたんだけど、今度は難しいと言って3度も針で突いたのよ。痛かった。」亜希子は、説明を続けた。
「とにかく、10日後のMRI検査を受けてみるから。」もう済んだと思っていた乳ガンがまた出来たかも知れないと思うと、真っ暗な夜道に放り出されたような気持ちになった。亜希子は、42才の主婦。同じ歳の夫和夫、大学1生の娘愛と三人暮らしをしている。そして3年前のことを思い出した。
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平成15年の4月中旬、何気なく自分の乳を触れたとき、あれっ?と思って左乳のしこりに気づいた。数日後、和夫とともに近くの開業医である沢田外科を受診し、乳腺エコーと細胞診検査を受けた。10日後に再び沢田外科を受診した。
「細胞診の結果、悪性と判定されました。ガンですので手術が必要です・・・。」院長が説明する声が聞こえたが、ガンという言葉にびっくりしてしまって、今となってはその時の話の内容は余り思い出せない。傍に付き添っていた和夫に支えられて、病院を後にしたことだけは覚えている。5月9日(金曜日)、夫の同僚からの薦めで、ガン専門病院である現在の立花ガンセンター乳腺外科を受診した。沢田病院長からの紹介状を持って、現在の担当医である坊田医師の外来を訪れたときは、沢山の患者に混じって座っている自分も乳ガンと思うと、将来のことが不安で胸が一杯になった。
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5月15日(木曜日)、立花ガンセンターに入院した。2?3日間隔で画像検査と細胞診検査がおこなわれた。それらの検査結果の説明は、5月25日(日曜日)、病棟のカンファレンスルームでおこなわれた。その時は、和夫と高校1年の愛が同席した。坊田医師が、少々雑な絵を描いて説明した。
「検査の結果、左の乳房のしこりはガンと診断されました・・・右の乳腺には病変はありません・・・」坊田医師は、手慣れた風に話し続けた。
和夫は熱心にメモを取っていた。愛はハンカチを目にあてて涙ぐんで聞いていた。
「乳房を全部取るという方法が今までは多くおこなわれてきましたが、最近は、乳房を最小限切除する部分切除法が主体で、今回もその方法をおこなう予定です。・・・全部取るか部分的に取るかは、基本的には患者さんのご希望に従います。」
「お乳が全部無くなっちゃうの?」と、愛が和夫に小声で聞いた。
「でも、本当にガンなのですか? どの検査もそうだと言われていましたけど、それでもそうじゃないってことはないのですか?」和夫は愛の問いかけには答えず、坊田に聞いた。
「画像のいずれもガンの所見ですし、細胞診の結果もそうですから、間違いありません。実際のガンの程度は、手術後の病理診断で明らかになります。」坊田は、即座に答えた。
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5月29日(木曜日)に手術がおこなわれた。
「どうだったの?」麻酔が目覚めた亜希子は、心配そうに顔をのぞき込んでいた和夫に小声で聞いた。
「手術中の病理診断の結果では、乳房の切り端にガン細胞はなかったって。それに、センチネルリンパ節にもガン細胞はとんでなかったそうだよ。左のお乳は残ってるよ。手術は無事終了したって。良かったね。」和夫の言葉に、まだボーとした感じの亜希子は、わずかに頷いた。
「ママ、頑張ったね。良かったね。」といいながら、右手を握りしめる愛の手のぬくもりを感じて、亜希子は(あーっ、愛のもとに帰れたんだ)と思い、涙がこぼれ出た。自分の左胸を触ろうと思って、愛の手を離して左胸に右手を当てたが、きつく包帯が巻かれ、また、しびれたような感覚も残っていたので、自分では左乳房の状態は良くわからなかった。
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手術後の経過は順調であった。手術前日から仕事を休んで付き添っていた和夫は、手術3日後から仕事に復帰した。愛は、学校帰りに病院に立ち寄って、母の手助けをしていた。手術後1週間目になる6月4日(水曜日)には、傷口の抜糸がおこなわれた。その際にはじめて、亜希子は自分の左胸を見た。少し形が変わったように思えたが、前と変わらない自分の乳首が愛おしく思えた。
「病理診断結果がでたので、明日、退院後のことも含めて説明します。」坊田は、いつものように表情を変えずに告げた。翌日、和夫と愛が同席して、坊田の説明が始まった。
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「手術前の画像所見と細胞診検査の結果で考えていたとおりに、乳ガンでした。病理診断の結果は・・・」という坊田の説明に、和夫が、治療の副作用などを質問していた。亜希子は、坊田の話すことが余りよくわからなかったが、とにかく無事に済んだらしいことと早期ガンだったということで幸せな気持ちになっていた。愛と手をつなぎ家族の温かみを感じることで、傷口の痛みも和らいだ。
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退院して、1年が過ぎた平成16年7月頃、社宅を出てマンションを買うことになった。手術後におこなわれた放射線照射が亜希子にはかなり負担で、少し腫れて赤くなった皮膚の炎症がほぼ治まったのが約1年後であった。そんな亜希子の気持ちを変えようという家族の決断であった。
「もう1年経ったのだから、新たなことにチャレンジしよう。丁度、良いマンションが売りに出されたから、買わないか? 愛の大学受験まで1年以上あるから、今なら愛への負担も少ないし。」
「あの川辺のマンション パンフレットで見たけど、この社宅より広そうね。いいんじゃない? ママも見晴らしの良いところに行けば、気分も少しはよくなるよ、きっと。」愛も賛成した。
「でも、ローンが大変よ。愛の大学受験にどれだけのお金がかかるか判らないし、私だったらもう大丈夫。少しずつ気分も良くなるから。」少し気持ちが引き気味の亜希子であったが、
「もう、ガンのことは忘れよう。大変だったけど、1年経ったのだから。今後に目を向けるべきだよ。」前向きになることを勧める和夫の説得で、ローンを組んでマンションを購入することに亜希子は結局賛同したのだった。そして、引っ越しへの対応や愛の大学受験などで忙しくしていた。手術後、坊田医師の外来には半年に1回のペースで通っていたが、乳ガンは治ったと思っていた。
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右乳房に対するMRI検査は、平成18年3月2日(木曜日)におこなわれた。
「MRIの結果も乳ガンと考えられます。それに細胞診も悪性と出ました。はっきりと触れるしこりはないし、エコーの所見からもごく初期の早期ガンだと思います。今回も部分切除で良いでしょう。」坊田は、外来で亜希子と和夫に告げた。
その夜、亜希子と和夫は話し合った。
「あなた、ごめんなさい。また、ガンになってしまって。」
「ママが謝ることはないよ。今度は、最初から退院までずっと傍にいるつもりだよ。」
「えっ? そんなことしてお仕事は大丈夫なの? 傍にいてくれるのは嬉しいけど。」
「仕事も大切だけど、亜希子の命には替えられないよ。それに、心配で仕事も手につかないし。もっと亜希子の傍にいることの出来る仕事に変わろうかとも思うんだ。」
「すいません。心配かけて。でも大丈夫よ。今回も上手くいくわよ、きっと。」
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3月15日(水曜日)に2回目の手術がおこなわれた。乳房部分切除術、センチネルリンパ節生検が前回と同じようにおこなわれ、手術直後の説明も前回と同じく、ガンの取り残しやリンパ節転移はないというものであった。違ったのは、前回が左、今回が右ということだけであった。和夫は約束通り仕事を2週間休んで付き添っていた。
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3月22日(水曜日)、傷口の抜糸がおこなわれた。その時、坊田医師が少し声を落として告げた。
「病理診断結果が出ました。なんでも、診断が難しい病気だということですが、ガンではないということです。」
「え!! どういうことですか? 細胞診でもガンだから間違いないって言ったじゃないですか!」和夫が大きく目を開いて、でも周りの患者には悟られないように配慮しながら聞いた。
坊田は少しばかり時間をおいて、
「細胞診検査をした後の細胞診断や病理診断をおこなう病理専門医が当センターに勤務していて、その先生が状況を話してくれますので、聞きますか?」と逆に聞き返した。
亜希子と顔を見合わせた和夫は、亜希子も同意見だということを感じて答えた。「聞かせてください。」
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3月24日(金曜日)、病理外来には、亜希子、和夫、坊田と病理専門医である西口が集まった。
「病理専門医の西口です。乳腺外来での細胞診断や手術で摘出された乳腺の病理診断は我々病理専門医が担当しています。今回は、手術前の細胞診断と手術後の病理診断に違いが生じましたので、その説明をします。」と話した後に、顕微鏡で観察した乳腺の細胞などの説明を始めた。西口の説明は、手術前の細胞診断ではガンとしたが、その説明文書にはガン一歩前の病変との鑑別が難しいということを記載しており、摘出された乳腺の病理診断はその一歩手前の病変であったというものであった。一方、坊田は、今見直してみても検査画像はガンを考えるものであるが、病理診断がガン一歩前というのならばそうなのかもしれないと説明した。
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亜希子と和夫は病理外来に設置されてあるモニター上で、西口が説明する亜希子の乳腺細胞を見ていた。亜希子は、細胞を見ていても良くわからなかったが、何となくガンではなかったのだということはわかった。すると内心、(あー、手術後の痛い思いをしなくても良いんだ、あの放射線を受けなくても良いんだ、これで済んだんだ。)とふわふわした気持ちになった。和夫の反応は違った。
「ガンじゃないって!? じゃあ何でガンなんて書いたんだ。ガンていうから、もう、仕事は辞めよう、亜希子の傍に少しでもいようと思って、必死の思いで仕事を整理してきたのに、どうしてくれるんだ!」と怒った。
「でも、最初から早期ガンだろうっていったでしょう。命に別状があるようなものではないって。部分切除で済んだんだから、良かったでしょう。見た目も余り変わらないし。」と坊田は和夫の態度に少し不満げであった。
「もっと慎重になってくださいよ、ガンっていうことばに。こっちがどれだけ打ちのめされたことかわかりますか? ガンじゃないかも知れないという気持ちがあったのならガンって書かないでくださいよ。」和夫の怒りは収まらなかった。
西口は、和夫の言うことはもっともなことだと内心思いながら、和夫に向かって穏やかに話しかけた。
「細胞診断や病理診断は、いつもたやすくできるわけではなくて、なかなか難しい病気というのがありまして、そのようなときは、治療が行き過ぎにならないように臨床の先生たちとは連絡を取り合っているのですが、今回は、切除した病変をじっくりと顕微鏡で調べるまでは、ガンではないと言えなかったのです。でも殆どそれに近い状態なのですが・・・。」
良性と悪性の鑑別が難しいことがあること、また、病変自体に良性と悪性の中間のような病変があることを説明しても、専門家ではない和夫には内容が伝わらなかった。しかし、ガンという言葉に怯え、医師から見ると過剰に反応したように思われる和夫の態度は、心底から妻の無事を願う気持ちから発していることが、西口にじんわりと伝わってきた。西口は思った、(ガンを疑うという診断にしとけば良かった)と。そして、改めて、細胞診断や病理診断が臨床医の治療方針決定にどれだけ重要であるかを感じた。(慎重に、でも的確にこの重要な仕事を続けなければならない)と、和夫の怒りを見ながら西口は思っていた。 ?終わりー (作:谷山清己 細胞診専門医・指導医)
(注)この物語はフィクションです。登場する人物名と団体名等は、実在のものとは一切関係ありません。
<解説>
腫瘍性疾患には、筋腫や腺腫といわれるような良性と肉腫やガンといわれる悪性があります。臨床医は、それらの鑑別をまず、CT、MRIといった放射線画像やエコーでおこないます。その診断精度は近年向上してきていますが、その画像上で悪性と考えられた場合や良性と悪性の鑑別が難しいと考えられた場合には、細胞診検査がおこなわれたり、生検がおこなわれます。画像を用いた診断はあくまで推定診断であり、細胞診断や病理診断は、診断を確定するために必要です。
細胞診検査では、針で突くかブラシでこするような方法で細胞が採取されるので、メスで切って取ることが基本的な操作である生検より、方法が簡単で患者さんの負担が軽いのです。採取された細胞を顕微鏡で見ることによって悪性であるか否かの鑑別が多くの病気で可能ですが、少数の細胞を観察するという元々の性質上、組織自体を観察する病理診断よりは診断精度は低くなります。細胞診断では良くわからないという場合も病理診断で確定されるということがあります。それぞれの特徴を上手く使い分けることが大切で、細胞診検査後の診断には、専門的に教育を受けた細胞検査士と細胞診専門医が携わっています。細胞診断は細胞診専門医の指導の下におこなわれています。細胞診専門医の資格は病理専門医以外にも婦人科医や外科医などの臨床医が特別に勉強して修得しています。
細胞診検査後の報告では、以前は単に分類だけが記載されていました。パパニコロウ分類というのがその代表で、クラスI,IIが良性、IIIが良悪性鑑別困難、IVは上皮内ガンあるいは悪性疑い、Vは悪性というように分けられてきました。II, III, IVの分類が曖昧で間違った解釈が生じるという反省から、別の分類が提唱されています。例えば、正常・良性、良悪性鑑別困難、悪性疑い、悪性、という4段階です。現在では、病気名と分類を併記する方法が最も良いと考えられています。今回のお話の中にあったように、細胞診断には良悪性の鑑別が困難であったり、ガンと思われるけど一歩手前かも知れないという状況が時にあります。正確な診断の下に治療がおこなわれるものの、その診断にも難しい場合があることを患者さんは知っていてください。また、ガンという診断には、早期のガンと進行したガンとが含まれます。現在では、早期のガンならばほぼ治りますし、進行したガンでも色々な治療方法があります。ガンと聞いたらすぐに死んでしまうように思うのは間違いです。正しい情報を得て、冷静に対処することが肝要です。
<用語解説>
細胞診検査;細胞を採取しておこなう検査のこと。乳腺でしこりができた場合は、皮膚の上から針を刺して細胞を採取する。採取された細胞が、ガン細胞なのかどうかということを顕微鏡で観察して決める細胞診断がおこなわれる。
病理診断;採取した体の一部の組織(生検)や手術で摘出した臓器を顕微鏡で調べて、診断すること。
エコー;超音波検査のこと。皮膚の上から機器の端末を当てると、体の中にある構造物がある程度わかる。
CT検査;放射線科でおこなう画像検査。輪切りになった体の構造が大体わかる。
MRI検査;放射線科でおこなう画像検査。精度が高く、体の構造は細かくわかるが、病理診断まではわからない。
腋窩;腋の下
腋窩リンパ節廓清;腋の下にあるリンパ節を全部取り出して、病理診断すること(ガン細胞が転移しているかいないかを見分けるため)
センチネルリンパ節;ガン細胞が最初に転移することが予測されるリンパ節。検査画像上でガンが転移していないと思われた場合に、そのリンパ節だけを調べて、ガン細胞が転移していなければ、残りのリンパ節は取り出さない。
転移;ガン細胞の特徴の一つ。最初にできた場所(原発巣)から別の場所に移ることを意味している。ガンの治療が困難となる理由の一つ。